どーも、ハイジです!
今日は用事があって外出しました。
小学校で運動会をしているのを見かけて
ある事を思い出しました。
うちのD(旦那様)は子どもが幼い頃
写真や動画をよく撮る人でした。
保育園でお遊戯していても
実物じゃなくのぞくのはカメラ。
家族で遊びに出かけても
笑って走り回る子ども本人ではなく
見ているのはカメラ。
「そんな写真ばっかり撮っててどうすんだ?
子どもが笑ってはしゃいでるのに、
こっち みてみて! ってやってるのに
カメラばっかのぞいててなんなの」
そう思ってた。
けど、その様子は数年後一変します。
運動会に行っても、
カメラなんか向けません。
家族で出かけても、
スマホで子どもを撮る事はほぼなくなりました。
カメラばかりのぞくDだった時私は、
それがとても不満だった。
あとで見返す事があるかどうかもわからんデータよりも
子ども本人と向き合ってほしいと思ってた。
だけどいざカメラを向けなくなると、今度は
「子どもの記録を残そうと思わないの?」
「興味がなくなったか?」
そう考えるようになった。
さてさて……
じゃーそんな事考えていた私自身は
どーいう行動していたかといいますと
以前は写真も動画も全く興味なく
目の前にいる子どもに目を向けていましたが
Dがカメラをのぞかなくなる頃には
主要な事は全てデータに収めるようになっていました。
これってどーいう事よね?
相手がやるのは嫌だけど自分はいい?
相手がやる事はマイナス行動に思うけど
自分の行動は正当化?
そーして、
うっすらと、
気付いてくるのです
結局、物事は
考え方、受取方次第で
どーにでもなってしまうってことに。
私がごちゃごちゃDの行動に対して
不満だの文句だのつけるのには、
Dの不可解な行動やその他の事柄(事件)が
関係しちゃーいるんだけど、
それにしたって 同じ事して
自分がやるのはいい、それは正しい、とは
何て自分本位なのだろうと思いました。
本当のことは、誰にもわからないんです。
話したところで嘘かもしれない、
聞いたところで本心じゃないかもしれない、
目に見えた事実でこちらが判断した事は
複雑な理由があって別の真実があるのかもしれない。
そう、結局わからないんですよ。
話したって、聞いたって
相手がどーいうつもりかなんて
本当のところはわからない。
だから今はやめたんです。
Dの行動に対していちいち「こうだ!」って
定義づけるのは。
そーしたら私はとても楽になった。
そして運動会を横目に
こんな事を思い出していた
私の横にはDがいる。
わかりもしない事を考えて
無理やり定義づけするのをやめたら
『再構築』が継続できている、
そーいう話でした。
<追伸>
『本当のことは誰にもわからない』って、
すごい事だとおもいません?!
誰もが聞いた事ある使いまわされたセリフですが
私はあるアニメでこのセリフに直面し、衝撃をうけ、
考え方が一変しました。
このセリフを聞いたおかげで
今こうして『再構築』の舞台に立っていると言っても
過言ではありません。
そのお話についてはまた今度展開します!